∑
∫
π
e
∞
∂
φ
Γ
ζ
レオンハルト・オイラー
Leonhard Euler
1707年4月15日 – 1783年9月18日(76歳)
1707年
📍 バーゼル(スイス)
牧師パウル・オイラーの息子として誕生。父は数学好きで、ヤコブ・ベルヌーイの講義を聞いていた。1歳でリーヘンに引っ越し、ここで成長する。
1720年
📍 バーゼル大学
13歳でバーゼル大学に入学。神学を学ぶが数学への情熱が強く、ヨハン・ベルヌーイから個人指導を受ける。週末にベルヌーイ家を訪問し、疑問を解決していた。
1723年
📍 バーゼル大学
哲学修士の学位を取得。デカルトとニュートンの哲学思想を比較研究。その後、父の願いに応えて神学の勉強を始めるが、数学への熱意が勝る。
1726年
📍 バーゼル大学
大学卒業。最初の論文「抵抗のある媒体内の等時曲線の作図」を執筆(わずか3ページだが、生涯800篇を超える論文の記念すべき第1作)。19歳の若さでの学術誌掲載。
1727年
📍 ペテルブルク(ロシア)
ペテルブルク科学アカデミーの招聘を受け、バーゼルを出発。ライン川、陸路、バルト海を経て5月17日にペテルブルク到着。奇しくも到着日に女帝エカテリーナ1世が崩御。
1735年
📍 ペテルブルク
高熱で生死の境をさまよう。この頃から目を患い始める。地図作成の仕事に熱中しすぎた疲れ目が原因とされる。後に片目の視力を失う。
1741年
📍 ベルリン(プロイセン)
フリードリヒ2世の招聘でベルリンへ移住。新設されるベルリン科学アカデミーの創立を支援。数学部長に就任し、25年間のベルリン時代が始まる。
1748年
📍 ベルリン
『無限解析序説』を出版。この著作により解析学の姿が大きく転換し、関数の概念が数学史上初めて明確に現れる。オイラーの代表作の一つ。
1766年
📍 ペテルブルク(再び)
フリードリヒ王との関係悪化により、ペテルブルクに帰還。後任にはラグランジュが就任。この第二期ペテルブルク時代に全著作の約半分を執筆する。
1772年
📍 ペテルブルク
目の手術を受けるも失敗し、ほぼ完全に失明。しかし数学研究は継続し、助手ニコラウス・フスの支援を受けて膨大な業績を残し続ける。
1783年
📍 ペテルブルク
9月18日午後5時頃、脳出血を起こし「死ぬよ」と言って意識を失う。夜11時頃に76歳で永眠。数学の歴史に燦然と輝く巨星の最期。
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